ハヤカワ文庫版の、ジョージ・オーウェル著「1984年」を、さきほど読み終えた。
正直言って、村上春樹の新作のタイトルが「1Q84」であると知らなかったら、途中でやめて古本屋に売り渡していたかもしれない。それほど、暗く陰鬱な気持ちになる「未来予想図」だった。
(以下、ネタバレ注意)
ざっくりとまとめてしまうと、この本は、1948年に記された時点での「未来予想図」を描いている。その予想図によれば、世界は3つの超大国に分割され、それぞれ強力な権力によって統治され、個人の自由な意志ばかりか思想までも圧殺されようとしている。そんな国々の中の1つでの、下級官僚のささやかな反逆の試みと、その「当然のような」失敗が描かれている。
2009年の現在から観れば、いかにも「1940年代的」なディティールがある。例えば、デジタル・コンピュータはこの小説に全く登場しない。インターネットもない。記録が最終的にはどのような形態に保存されるのかは不明だが、記録する行為は「口頭で喋ったものがテキストとして保存される」らしい。現実には、2009年になっても、喋ったものをテキストに変換するのは容易なことではないようだし、容易かどうか以前に、キーボード入力の方が便利だ。個人の監視の方法もスマートではない。テレスクリーンなる装置で画像や音声を記録したり、録音機で個人の会話を録音したり・・・そりゃいくら何でもデータ量が多すぎて捌ききれないだろう、と思う。第一、そんな苦労をしなくても、ネットを監視してメールやブログをチェックすれば、個人の思想など簡単に分析できてしまう・・・2009年の私が1948年の作家のディティールにつっこみを入れるのは馬鹿げているので、この件はこのくらいで自粛する。
しかし、大枠においても、いかにも「1940年代的だなあ」と思うことはある。例えば、この小説に描かれる権力は、いかにも旧ソ連に似ている感じがするし、この小説の中では1950年代に核戦争が起きているが、現実には意外にも、2009年の今になっても、かろうじて日本が「唯一の被爆国」になっている。東西冷戦が始まり、まだソ連に勢いがあった頃に作られた小説だ。あの頃は「核戦争など当然起きる」と多くの人が思ったのだろう。
一見すると、この小説は「反共」がテーマであるように見える。旧ソ連にそっくりな体制の中で、個人が虐げられている様を、これでもかというほど書き込んでいるからだ。だが、そうではない。権力というのは、何も「ソ連の特産物」ではない。あらゆる権力は、この「小説1984年的なもの」になりたがる性質を内在していると考えるべきだろう。
そして、笑えない現実として、この小説を読んで、あれ?と思うことがある。あれ?これって結局、世界中が3つの「北朝鮮になってる」ってだけじゃん、と。いやいや、日本に何かと世話を焼いてくれる唯一の超大国だって、心の奥で何考えてるかなんてわかりやしませんぜ、親方。テロリストを退治しようと叫ぶ国が、実はかつてこっそりテロリストの先祖たちに武器を渡していたって説もあったりなかったり。
結局、誰が悪いとか悪くないとか、そういう話をしているのではないのだ、この小説は。人間が、考えることを放棄して、自由を手にするための努力を怠っていると、君もこーなっちゃうよーん、というのが、この「1984年」という小説の言いたいことなんじゃないかなと思う。いや、すいません、Wikipediaとかもちょっとカンニングしましたし、訳者あとがきも2回読んでから、これ書いてます。
で、村上さん。
海辺のカフカで大島さんを怒らせた村上さんは、「1Q84」で、海辺のカフカで見せてくれたような、一筋の清々しい光明を、見せてくれるのでしょうか?村上さん。
ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだ
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