劇場版涼宮ハルヒの消失を楽しむ3つのtips+感想


カテゴリー: テキスト日記萌え | 投稿日: | 投稿者:

2/7、今日、平塚のシネコンで「涼宮ハルヒの消失」を観て来た。
時刻は10:10から。
前日、ネットで座席予約状況を調べてみると1/3くらいしか埋まっていなかったので、「空いているのかな」と思っていた。
だが、そうではなかった。
チケット発券カウンターに「混雑が予想されます」の張り紙。
日曜日とはいえ、午前中なのに95%くらいの座席が埋まった。

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上映時間150分=2時間半のこの映画を充分に楽しむには、ちょっとしたポイントがあると思った。

1.上映前にお手洗いに行っておくべし。
高速バスはおおむね2時間以上運転する路線から、車内にトイレの設備を付けると聞いたことがある。「涼宮ハルヒの消失」は2時間半。実際、終了近くになって席を立って行った気の毒な観客が居た。飲み物なんかも、できれば上映前には控えておいたほうがいいかもしれない。上映後、余韻に浸りながらロビーでゆっくり味わえばいいのだから。

2.ネタバレ上等。下調べ恐るるに足らず。
「涼宮ハルヒの消失 ネタバレ」で検索すると、親切な方々が色々記してくださっているテキストが出てくる。
手っ取り早く知りたければそれを読むもよし。
ライトノベルの原作を読むもよし。
私は実際、原作を何度か読み返した。多分3回くらい。
で、映画がつまらなかったかというと、全くそんなことはない。2時間半の間、時計を見ることが一度もなかった。私は、コンサートや映画を観るとき、しばしば時計を見て「ああ、半分くらいまで来たんだな」などと確認したりするが、そんなことをする余裕がなかった。密度が高いのだ。あらすじを知っているくらいでは、全然足りないくらい、映画に引き込まれる。
むしろ、あらすじを知っていた方が、ディティールを観察する余裕が出来て面白いかもしれない。
あと、あらすじとは違うが、DVD版の「涼宮ハルヒの憂鬱第1巻、第2巻、第3巻(「涼宮ハルヒの憂鬱1〜6)と、DVD盤の「涼宮ハルヒの憂鬱・(新)第4巻(「笹の葉ラプソディ)を見ておくと、登場人物の属性というか設定があらかじめ理解出来るので、おすすめしたい。ラノベで読むなら第1巻「涼宮ハルヒの憂鬱」第4巻「涼宮ハルヒの消失」の2冊だ。

3.出来れば座席を予約した方が安心、お買い物はお早めに
正直言って、予想外に混んでいた。何しろ上映終了後に平塚のシネコンのロビーは、あたかも秋葉原に迷い込んだような人たちであふれかえっていた。
座席は事前にネット等で好みの位置を予約しておいた方が安心。
グッズを買いたい人は、上映前の方が売店がすいている。映画の上映前に会場に来て、早めに買い物を済ませた方がいい。映画を観た後で欲しくなるのだろうか、上映後の方が売店が混んでいた。

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2.の「ディティールを観察する」楽しさの例を挙げたい。
2つの意味で、ディティールの観察が面白い。
第一に、原作ラノベとの比較。キョンが光陽学院の警備員に取り押さえられるシーンは、原作にはない。ラスト近くのキョンの自問自答のシーンも、映画独自の描写が突き詰められている。
第二に、リアリティ追求のためと思われる「作り込み」が半端でないということ。
例えば、世界改変後のハルヒ・古泉・キョンが(おそらく)サイゼリヤで話をするシーンがある。なぜサイゼリヤとわかったかというと、彼らの飲み物のカップの絵柄がサイゼリヤのものに酷似していたからだ。(それに加えて、一緒に見ていたひなは、背景のイタリアっぽい壁画からも「ここはサイゼリヤだ」と確信したという。)そして実際、彼らが店から出てくるシーンでは、Sで始まる看板が何となく書いてあって、ああやっぱりこの舞台の元ネタはサイゼリヤだったんだ、と確認できたりする。・・・っていうくらいは驚くに値しない、実は、もっと細かいところまで作り込みがある。その会話のシーンで、サイゼリヤの窓の外を車が何台も通過していくのだけれど、なぜか、どの車も必ず一時停止をするのだ。よく見るとそこは阪急甲陽線の踏切がある。つまり、背景に書き込んだ車の交通法規に基づく挙動にまで、リアリティを追求しているのだ。むろん、原作にはそんなことは書いていない。
その他にも、まだある。
時空改変後の世界の文芸部室に置いてあった旧型パソコンは、おそらく実際に存在したであろうNECのPC-9801(当時はまだPC-9801が大きなシェアを占めていた)に、実物と同じWindows95のスタートアップ画面と、ブライアンイーノが作曲したというオープニングサウンド。原作には単に「旧型のパソコン」としか記されていないものだ。
まだまだある。実写から取り込んだのではないかと思えるほど美しく再現された西宮の町の遠景。
きっちり3両編成を守っている阪急甲陽線。
ファミリーマートの店員の制服。
そのファミリーマートでキョンが手にした新聞は「朝日新聞」(原作では紙名不特定の「スポーツ新聞」)。
そして、最後のシーンに出てくる「甲南病院」は実在する。
http://www.kohnan.or.jp/
原作では、長門はキョンの病室を訪ねてくるが、映画では、屋上に出ていたキョンのところにやってくる。夜景を背景に、淡雪が降り始める。

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テキストでは表現が難しいのだが、原作を読んだ上で映画を見ると、映画の方が、ディティールだけでなく「骨」に相当する部分も、よりしっかりと補強されているように思う。
例えば、世界改変後の長門の表情が、ラノベで読んだ雰囲気以上に、強調されている感じがする(より豊かに表情を作る)。何度も泣きそうになった。ラストで歌っていた長門有希(茅原実里)のアカペラが今でも心の中で響いている。
最後に情報統合思念体に対して啖呵を切るキョンも、原作以上に格好いい。「くそったれ」の一言が怒りに満ちて響く。これも原作以上に強い。

「涼宮ハルヒの消失」は、「長門の巻」との異名を取る切ない長門有希の物語であると同時に、最後にキョンが「自分の責任において自分の未来を選択する」という物語でもある。
これは、教育映画ではないし、ましてや説教映画でもない。宗教や哲学を描く訳でもない。純粋にエンターテイメントだ。
にもかかわらず、この最後のキョンの「決定」が、キョンの成長を描き出すと同時に、観客に対して、ある種の今日的な印象を残してくれる。
それは、日本で言う1995年以降=「阪神大震災+地下鉄サリン事件以降」、世界でいう2001年以降=「911同時多発テロ以降」の、あの日以降、日常と非日常が入れ替わってしまったような現代を生きる私たちが、今まさに突きつけられている課題でもある。(実は「あの日」以前からとっくに、日常なんてものは儚いあやふやなものだったのだが、それについて書き始めると長くなるので略する。)
もう、誰かの手に自分の未来をまかせっきりには出来ない、誰もあてに出来ない、自らが自らの未来に責任を持たなくてはならない、いや、ここはもう、自らが自らの未来に責任を持つことが出来る世界なのだ、と。
1990年代から2000年代のまるまる20年を「失われた20年」として過ごしてしまった私たちは今、「流されるままではいけない2010年代」を迎えたばかりの立ち位置に居る。
「涼宮ハルヒの消失」は、そんなタイミングを測ってスケジューリングされたのかというと、そんな訳はなく、あくまで偶然なのだが・・・

(おまけ)
映画の中で「ジムノペディ」がとても印象的に使われる。泣きそうになる。これは観てのお楽しみだ。
(おまけ2)
最後の最後に、原作にはなかったシーンが追加されている。
(おまけ3)
ディティールといえば、ひなが気づいたのだけれど、世界改変後の長門さんが、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいたそうな。芸が細かい。細か過ぎ。だって、あれもまた「2つの世界」を描いた物語じゃないですか!