もう30年くらい昔のことになるが、千葉県立某高校の校長が、こんな話(講話)をしたという。
それは、「成功した話をするより、失敗した話をした方が、みなさん喜ぶんですよ、だから私はなるべく失敗した話を話すようにしています」。
今、不特定多数に向けて「話をする」=「情報を発信する」ということが、ブログという仕組みによって極めて簡単になって、なにも県立高校の校長にまで出世しなくても、大勢の前で「話をする」に相当することが、誰でも可能になっている。私もそういう1人だ。
で、初心に立ち返るという訳でもないけれど、改めて考えてみると、私もどちらかというと「成功した話」をするのが好きな方で、それはとりもなおさず「つまらない話を振りまいている」ことになるのだろうなあと、かなり反省するところ大である。
で、早速、近年の失敗事例を色々書いてみようと思ったのだけれど、ここ数年に関して言えば、人に話して面白いというほどの失敗は、あまりない。紙の切符を買ったのに、JRの自動改札で誤ってSuicaをタッチしてしまった失敗など、失敗ではあるけれど全然面白くない。そういう失敗をひけらかしているうちは、まだまだ私も修行が足りないということなのだろう。(ちなみにこの失敗をした時には、そのSuicaを駅員さんのところに持って行って、タッチの「取り消し処理」をしてもらえばOKです。)
かなり恥ずかしい失敗としては、やはり、かなり痛々しい「文学賞落選」というのがある。これは結構回数を繰り返していて、20年くらい前には、福武書店の海燕(かいえん)新人文学賞に4年連続で滑った。1次選考で落ちたとかいうのはもうどうでもよくて、3次選考で落ちた時は凹んだ。しかし、今思えば落ちて当然のものを出していたと思う。去年は久しぶりに「湯河原文学賞」に応募してみたが、かすりもしなかった。200編弱くらいしか応募がないらしいので穴場だと思ったけれど、どうも、入選作を読んでみると、私みたいなのは「相手にされない」んじゃないかという気がした。これは、湯河原文学賞を非難して言っているのではない。どんな賞、文学賞に限らずあらゆる賞、写真なんかもそうなのだけれど、その賞の「入選しやすい傾向と対策」というのは、やっぱりある。ただやみくもに出品すればよいのかというと、それは違う。そういうのは、努力の方向性として、あまりお勧め出来るものではない。
で、今年から少し考え方を改めて、いわゆる「純文学」ではなく、「ライトノベル」の方に出すことにした。全然違うじゃないか、どういう節操のなさだと思われるかもしれないが、私自身、読んでいるものは、今、純文学ではなくてライトノベルやその派生のアニメ(これは読むというより観るだが)なんかの方が、絶対量は多いのだ。例外は村上春樹だけ。しかし「村上春樹の傾向と対策」を考えてもしょうがない。「傾向と対策」ごときで真似が出来るほど軽い小説ではない。彼ほどの「文学の基礎体力」を持っている人は少ないと思うし、私は文学部卒といっても地理学科だし。
で、あまり大きな声では言えないけれど、湯河原文学賞で滑った作品を、少し手を入れて、ライトノベルの選考に出した。それが今年の4月。でも、正直、期待していない。やっぱり、バレますよね、使い回しって。なんかおかしい、と思うはず。読む人は。
今、こりもせずにまた新作を書いていて、今はもう推敲の段階に来ているけれど、今度こそ通って、売れて欲しいなあとか思っている訳ですけれど、この年になって、しかも、これだけ落選を繰り返していると、自然に「あまり期待しない」というふてぶてしい態度が身に付いてしまっていて、ああ、よくないなあ、こういう「苦労人ぶった人」にだけはなりたくないなあなんて思ったりしてしまう訳です。
今日は黒ヱビスを飲んでいるので、何を書いているのか訳が分からなくなって来た。