「長門有希の憂鬱」に逃げ込む


カテゴリー: テキスト日記 | 投稿日: | 投稿者:

ついさっきまで、作者不詳のSSを読んでいた。
「長門有希の憂鬱」http://www25.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/3049.html
今日始めて知った作品ではない。数年前に読んで、それから何回か読み返している。
いつごろ発表されたものか分からないが、かなり完成度が高いと思う。

あらすじは・・・いや、ちょっと書けない。書かないのではなくて書けない。
結構複雑なのだ。
もの凄く圧縮すると
1.は「長門が=異次元世界=私たちがいるこの時空=に飛ばされる」
2.は「その原因が明らかになり、解決する」
・・・である。これでは全然分からないと思うが。

なぜ今頃これを読みあさっていたかと言うと、一時、現実世界の憂いを忘れられるから。

福島第一原発は収束しない。レベル7が妥当か不当かはさておき、今日も放射能は漏れている。兆単位で収まらない損害を出しながら、同じシステム(原発)が全国に50以上あって、今日も元気に活動中。誰も止めない。止められない。
震災の爪痕は深く、死者行方不明者合計2万5千以上。湯河原町が1つ消えてしまったに近い。被災地では家も何もかも流されて体一つで体育館に寝泊まりしている人たちが沢山居る。救援物資や義援金をいくらつぎ込んでも、死んでしまった人が戻らないばかりか、有形資産の原状回復すらほど遠い。

阪神大震災の時、あまりの惨状に、現実が非現実と入れ替わってしまったような感覚を覚えた。メディアの興味は、その2ヶ月後に発生した地下鉄サリン事件にうつってしまって、被災地の苦境はほとんど報道されなくなった。私は当時の「パソコン通信」で被災地の友人と連絡を取り合っていたが、数ヶ月経っても電車さえまともに動かず、商店街はがれきの山と化してしまった様子などを知って、衝撃を受けていた。

あの時の感覚に近いといえば近いけれど、1995年に一旦「現実と非現実」がひっくり返ったとして、じゃあ今私が立っているこの場所は、もう一度「現実と非現実がひっくり返ってしまった」場所で、元に戻っているのだろうか?いや、何も元に戻っていない。
1995年、東京駅の東海道新幹線乗り場の電光掲示板は、「新大阪行」止まりばかりを掲示していた。
2011年、常磐線は今日も止まっている。

私は小説の中に逃げ込むことしか出来ないでいる。