あれから3年


カテゴリー: テキスト日記 | 投稿日: | 投稿者:

今日の14:46に、湯河原町では防災無線のサイレンが1分間鳴らされた。
私たちは、黙祷した。

あれからもう3年経つのか、と思う。

あの時、初期微動から本震まで時間があったので、遠いところで大きな地震が起きているということは分かった。まさか東北とは思わず、ついに東海地震が来たか、とも思った。湯河原は震度5だったというが、感触としては、うちは4くらいしか揺れていなかったように思う。ただ、確かに長い間揺れが続いたのは覚えている。

正直言って、95年の阪神大震災の時、おそらく一生のうちでこれより大きな地震を見聞することはないだろう、と思った。あの時には西宮に複数の友人が住んでおり、現地の様子がメールで伝わって来て胸を痛めた。

今回は、直接の知り合いは誰も住んでいなかったのだが、90年代初頭に集中的に東北エリアのJRに乗っていたし、三陸はるか沖地震の時には秋田で地震に遭遇したりもした。三陸鉄道も全線乗った。島越駅では下車して駅の喫茶店で珈琲を飲んだりした。

島越駅が流されたという映像を見て驚愕した。
あの駅はトンネルに挟まれた高いところを線路が通っていて、頑丈な高架橋の途中にあった。それが、跡形も無く流されていた。
あのあたりは元々津波対策もしっかりしていて、背丈よりはるかに高い防潮堤もあった。それが、あの結果となってしまった。

東松島にも何度か泊った。その宿は、津波の直撃を受けて再起不能となってしまった。

上野から仙台まで行くのに、あえて常磐線を使うこともよくあった。それは、青春18切符で普通列車を乗り継ぐときもあったし、特急スーパーひたち7号・・・常磐線経由上野発仙台行・・・にも何度か乗った。
常磐線の北の方は、海岸線が見えて車窓が美しい。
そこも津波の直撃を受けたと聞いて、あの美しい海がどんなにか恐ろしい牙を剥いたことか、だいたいの想像がついた。果たして、跡形も無く流された新地駅などの写真を後日見て、ああ、やはり、と思った。

そして原発。放射能は湯河原にも届いたが、実家のある千葉県柏市はホットスポットが生じている。ホットスポット。チェルノブイリの時に、そういう場所が出来たことは知っていた。まさか実家がそれに該当するとは。実家では、庭木を切った枝は、普通のゴミとして出すことが出来なくなっていた。なぜならそれは「放射能を含んでいるため通常の焼却処分が出来ない」からだった。

あれから3年。
果たして私は、私たちは、本当にまともな方向に進んでいると言えるだろうか?
自信がない。