そろそろ年賀状を書く


カテゴリー: テキスト日記 | 投稿日: | 投稿者:

今年の総括、などという大袈裟なものではないし、だいたい総括も何もまだ半月も残っているじゃないかという気もするのだけれど、先月から製作にかかっているサイトがもう少しでクランクアップするところまで来たし、とりあえず年賀状の通信面だけは全部刷っちゃったしで、ああもう今年も終わりかなあなどと思ってみたりする。

で、1996年。
そう、あれは1996年のことだった。
もう、単純に大組織に身を委ねていれば安泰というご時世では「絶対にない」と思った年だった。「もはや安全地帯はどこにもない」と感じた年でもあった。「自分に関する全てのリスクは誰も面倒を見てくれない。自分で引き受ける以外に道はない」と確信した年でもあった。

1996年。
その春、私は定期的な人事異動で、ある学校の事務室に配属となった。
そこは、悲惨な職場だった。
私の前任者は「栄転」であったが、その「栄転先」というのは、いわゆる「不夜城」と呼ばれる過酷なセクションへの転勤であった。その世界ではそれが「幸福なこと」とされていた。なぜなら将来的に昇進へと繋がるからだ。昇進など「夕方6時に自宅で自炊して食べる」夕食のみそ汁の味噌滓一粒ほどの価値もないというのが私の考えであったから、私にはそう思えなかった。
しかし、そんな他人のことなどどうでもよかった、というか、他人のことを心配している余裕などなかった。
後輩となる職員が一人、メンタルヘルス系の診断書を3ヶ月おきに出して療養休暇を取り続けていた。聞けば前の職場でも色々あった人だったという。つまり1人欠員であった。4人居るべき正規の事務職員は3人しかおらず、1人はアルバイトで、彼女の仕事は専ら電話応対や来客応対中心の仕事であった。が、それでも電話応対すら手が足りない。そこ学校はある事情があって、父母からの電話が絶えない学校だった。その上、おそらく休職中の彼と思われる人物から、頻繁に無言電話がかかってきた。私はその無言電話に「むごんくん」という名前を付けた。丁度消費者金融で「むじんくん」というのが現れ始めた頃だった。割り振られた事務量は膨大なものだった。明らかに職員4人の手にあまるものであった。それを3人+1で捌いていた。横須賀線の終電に何回乗ったことか。終電を逃して自腹でタクシーにのって、運転手を急かして高島町まで行って東横線の終電に乗ったこともあった。夕食は夜遅く、終夜営業のカレー屋に行くことが多かった。
辞令1枚で、普通に暮らしていた日常が剥奪され、生活の何もかもが破壊される。だが、それが、この業種の宿命なのだということを、骨身に滲みて理解した。世間一般に、公務員として就職すればどんな不景気でも倒産がなくて安泰で、結構大きな社会的信用も得る(その証拠に公務員は住宅ローンとか車のローンとかすんなり借りられることが多いし、縁談等もまとまりやすい)が、それは、自らの心身を、顔の無い大組織という「仮想の生き物」に捧げ、単なる代謝物として生き血を吸われることと同義なのだと。
で、冒頭に記したような感想というか結論というか、そういうものを出すに至って私は、秋の人事異動希望調査に回答用紙を提出しなかった。所属長は「辞めるのか。ああそう。どーすんの?ああそう、しばらくぶらぶらしてんのか」と言った。彼にとってはこんなことくらい「よくあること」だったのだろう。彼に恨みはないし、そもそも彼に何を期待していた訳でもない。事務長は少し違った。「あんた本当に、よしなさい。この仕事を辞めて、小説家になるとか歌手になるとか言って消えて行った人はたくさんいる」。そう言った。私は別に小説家にも歌手にもなるつもりはなかったし、写真作家になろうとさえ思わなかったが、夜間の写真学校に行ってみようと思った。それは、ただ、何となく勘のはたらく方向に動いてみようかと思った、ただそれだけだった。公務員という、世間一般に「安定した立場」にある人が、そんな「人生を棒に振る」みたいなことをしようとして、止めない人は居ないわな、とは思った。しかし、そこで一歩前に進むことが出来たのは、身辺に起きた変化について、「世間一般の常識や価値観などどうでもよい、それより自分自身にとってどうなのか」という問題であると受け止めたからだ。

事務長はその10年後、勧奨退職(早期退職)で、割り増しの退職金を貰って仕事を辞めた。今思うと、なるほどそういう手段もあったかと笑える。
けれど、その時にはそんな発想を持つだけの余裕すら、私にはなかった。
いや、その手段でさえ私には耐えられなかっただろう。1996年からさらに20年、あのような暮らしを我慢して、何が得られただろう?そして、それが終わった頃、私は50歳。今の私より老けている。
その年齢になって、何の取り柄もない普通の男、というより、いい加減人生にくたびれてしまった人が、例え個人事業でも、新しい事業など起こせるものだろうか?既に起業経験のある人とか、よほどの資金力とコネクションを持っている人でもないと難しいだろうなと思う。
あのまま20年我慢を続けていれば、潰しの効かない老けた男1名様の出来上がり。まかり間違っても「飯島意匠」など存在していなかった。ひなと出会うこともなかった。

1996年12月31日の大晦日から1997年1月1日の元旦までの年越しを、私は東北のある町で過ごした。
初日の出は海岸で眺めた。雲は多かったが、太陽が見えた。松原を抜けると静かな砂浜があった。波は静かで、鏡のような水面に朱色の朝日が差した。その時の写真を今でも持っている。

その場所は、宮城県陸前高田市。
今、松原はたった1本の「奇蹟の一本松」を除いて全て流された。
あの静かな水面が、どうなったらあの恐ろしい大波に変化するのか、今でも信じられない。
けれど、これが現実世界というものだったのだ。

事務長とは、今でも年賀状のやりとりをしている。今年も多分出す。